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【南方熊楠と人類学と心理学】

神社合祀反対運動に一段落がついた頃、南方熊楠は1911年柳田国男と文通を始める。 そして同じ年に「東京人類学雑誌」に「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」という論文を寄稿している。

その論文の中で熊楠は、ヴィクトリア時代に活躍していたイギリスの学者の本からいくつか引用している。

特にフレイザー(Frazer,Sir James George 1854-1941)は南方熊楠が渡英していた1890年代に最も注目され始めていた人類学者の一人である。

当時、イギリスでは人類学という新しい学問が登場し始めていた。 それは、最も世界で栄えていた大英帝国という性質から多くのものが世界中から集まってきたという事もあるが、19世紀半ばにダーウィンの進化論や帝国主義の植民地観から、様々な国を発展のための進化の段階という統一した見方で、国を比較できるようになったというのが強いようである。

南方熊楠が、渡米するきっかけになる際も、スペンサー(Herbert Spencer1820-1903)の影響を受けて、人類の進歩に乗り遅れないようにするためと演説をしているが、そのようにダーウィンが知名度を上げた進化論が多少変わった形で社会論に取りいれられるようになっていたのだ。

確かに多くの国の民俗や伝承の話を聞いても、ただ漫然と色々と聞くだけではただの物知りになるだけである。しかし、色々な国の話を統一した基準で比較することができれば、考察する対象と化する事ができる。まさにフレーザーは、「未開社会やエキゾチックな文明で行われているいろいろな習慣や神話の内部にたちいって、そこに共通する「未開の論理」を探り出そうとしたのである。」(※1)

そう考えると、南方熊楠のスピリチュアル(心霊的)な話も、人類学的な立場から捉えようとしたのだと理解がすることができる。そのような非科学的なものでさえも、人類学的に話を寄せ集めれば、人の心の働きを知る学問となる。

そのような方法を特に後期にとったものとして思い浮かぶのがカール・グフタス・ユング(1875-1961)である。彼もスピリチュアルな話からエキゾチックな文明の物語を集めて細かく分析する事で、人間の本質的な心のタイプを見つけている。

そう考えると、人類学は心理学と通じるところがあるのかもしれないと思った。

確かに近代心理学の始まりとして、その人類学が登場した頃に、ヴェルヘルム・ヴント(1832-20)が心理の実験室を作ったことが思い出され、更にもう少し後に臨床心理によって精神の構造を分析したジグムント・フロイト(1856-1939)を思い出す。ただヴントも科学的な実験をしつつも民族誌などの比較による心理の研究も行っていると聞いたような気がする。そして、フロイトもユングと対立した際、スピリチュアル的な事は表立っては批判したが裏では有意義な部分も認めていたようであり(というよりユングに対してあんなに執拗に反対したのは、分かっていたけど科学としてやってくためには割り切るべきという親心からとも)、またフロイトは古美術品を集めることに熱心であり、レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロの分析もある意味では文献集めの一環のようにも思える。

また、当時ブームとなり始めていた人類学は、ある統一した基準を持って未開社会の話やエキゾチックな文明を分析し、その分析対象の心を読み解くというスタイルで行っており、ある意味では性理論によって患者を分析し、心を読み解くというフロイトのスタイルと似ているといえば似ている。

そして、南方熊楠もネイチャーでの初投稿「東洋の星座」(1893)においては、西洋と東洋の星座の捉え方を比較して人間の想像力を読み解くというような試みもしている。

だから、熊楠をダーウィンを始めとする「生物学・博物学」として捉えると共に、スペンサーやフレーザーなどの「人類学」にも線を延ばし、さらにユングやジェームズなどの心霊学や人類学的なものも扱った「心理学」まで拡張して捉えてみると、当時(特に1890年代)のイギリスを始めとする世界の思想の総合性に触れることができるのじゃないか、と最近思いました。

※1…『「南方熊楠コレクション」南方民俗学』中沢新一(編集・解題)、1991、河出文庫 この著作が今回このような方向性で熊楠に興味を持った一番のきっかけ。

目次

マックス・ミュラーの可能性から生涯まで論じていきます。

マックス・ミュラーから読み取れる人類学の可能性

比較言語学や比較宗教学などのベースを作ったマックス・ミュラーは、未開社会の神話やエキゾチックな文明の話を太陽を中心とする天文学をコードとして読み解くという手法を使ったことで、おそらく1860~80年代のイギリスにおいて大きな影響力を与えたようである。「アーリア」人という概念がその後普及していった発端でもあるようである。

1890年代に人類学の新しい方法で注目を浴びたフレーザーや、1890年代にイギリスに行った南方熊楠もミュラーについては意識している(帰国後の「燕石考」はミュラー批判という側面もあるらしい)。

 中沢新一によると「インド・ヨーロッパ語族の神話では、もともと天文学的コードが優越している。」それを「インド・ヨーロッパ語の特徴を、すべての神話に拡張しようとした」※1というところが、マックス・ミュラーは当時から批判される側面を作ったらしい。

 ただ、その天文学的コードによって多くの神話を分析するという手法自体の是非はおいておいて、彼が行った方法を見ていくと、言語を要素ごとに分解しその意味を定めていき、人間の知覚能力はカントをベースに語り、人間と動物の境界線はダーウィンを批判的に取り扱いながら語っている。  また、神に関する言語の考察は後々にニーチェも同じような方面から考えている。

 そう考えると1890年代の人類学は、単に文化を考えるだけでなく、色々な文化を通して総合的に「人類」(おそらく進化論によって動物と人類の区別が必要になった側面もあると思う)を科学的(現在の科学と少し違い「体系的」みたいな)に捉えようとしたのだな、とか思いました。 比較言語学や比較宗教学などのベースを作ったマックス・ミュラーは、未開社会の神話やエキゾチックな文明の話を太陽を中心とする天文学をコードとして読み解くという手法を使ったことで、おそらく1860~80年代のイギリスにおいて大きな影響力を与えたようである。「アーリア」人という概念がその後普及していった発端でもあるようである。

1890年代に人類学の新しい方法で注目を浴びたフレーザーや、1890年代にイギリスに行った南方熊楠もミュラーについては意識している(帰国後の「燕石考」はミュラー批判という側面もあるらしい)。

 中沢新一によると「インド・ヨーロッパ語族の神話では、もともと天文学的コードが優越している。」それを「インド・ヨーロッパ語の特徴を、すべての神話に拡張しようとした」※1というところが、マックス・ミュラーは当時から批判される側面を作ったらしい。

 ただ、その天文学的コードによって多くの神話を分析するという手法自体の是非はおいておいて、彼が行った方法を見ていくと、言語を要素ごとに分解しその意味を定めていき、人間の知覚能力はカントをベースに語り、人間と動物の境界線はダーウィンを批判的に取り扱いながら語っている。  また、神に関する言語の考察は後々にニーチェも同じような方面から考えている。

 そう考えると1890年代の人類学は、単に文化を考えるだけでなく、色々な文化を通して総合的に「人類」(おそらく進化論によって動物と人類の区別が必要になった側面もあると思う)を科学的(現在の科学と少し違い「体系的」みたいな)に捉えようとしたのだな、とか思いました。

南方熊楠と当時のイギリスのミュラーに対する反応

約8年程続いたイギリス生活から日本に戻ってきた熊楠が田辺を住まいとし、小畔四郎らと本格的に菌類の採取を始め、今までの学問の方法論をまとめた「南方曼荼羅」の構想を土宜法竜に述べ始めた1903年、南方熊楠自身では最も力を入れた「燕石考」という論文を書いた。

その論文は、1860~80年代にイギリスにおいて宗教や神話などの比較において一つの指針を示したとして知られるマックス・ミュラーの批判も念頭に置いていたらしい。※1

ミュラーは、神話やエキゾチックな文明の話を分析する際、ヨーロッパ・インド語族(アーリア社会)においては太陽を中心とする天文学をベースに考えなくてはならないという考え方を示した。言語の源流をたどっていくと神話においてどのように天文学を念頭に捉えたかということが本質的な考察に導くと考えたようである。

ただ、それはヨーロッパ・インド語族以外の社会についての比較文化に仕えないなど問題もあり、南方熊楠を始めフレーザーなどが新しい見方を提唱していった。

しかし、さまざまな文化を言語の源流まで辿り、思考の捉え方を考察し、人類の能力とそれに基づいた分析をするフレームワークは、後の哲学や心理学的な仕事と言えるような気もする。

マックス・フリードリヒ・ミュラーの生涯

1823年、ドイツのデッサウで生まれる。

父・ヴェルヘルム(Johann Ludwig Wilhelm Muller1794-1827)、1813年のナポレオンがプロイセンに大敗した諸国民戦争(ライプツィヒ戦争)に参加し、そのあと学者や詩人・官僚とマルチに活躍する。

1821年14歳の時、70歳のゲーテ邸に2週間訪問したメンデルスゾーンはヴェルヘルムを親交を持ち、1823年ヴェルヘルムがマックスを生んだとき、メンデルスゾーンはヴェルヘルムのオペラ「Der Freischutz」の中心的な登場人物マックスからとって名付けたという。

またこの時ヴェルヘルムが出した詩集を、晩年の全盲ベートーヴェンと1822年にウィーンで知り合ったりもしていたシューベルトが感銘し、1825年にヴェルヘルム詩から作曲する。ただし、シューベルトとヴェルヘルムの直接的な面識はない。

そして1827年に父ヴェルヘルムは活躍的過ぎて体を壊し亡くなる。 1829年にマックスは、ライプツィヒのニコライ・スクールに通い、父同様音楽と詩に興味を持ち勉強していたが、父の知人メンデルスゾーンの勧めもあり違う道を歩むことにする。

そしてライプツィヒ大学に通い、ベルリン大学ではシェリング(間もなく教授職を引退する)に学び、ウジェーヌからはサンスクリット語や東洋学について学ぶ。

1848年、サンスクリット語の『リグ・ヴェータ』の翻訳・校訂能力が買われ東インド会社の援助によって、イギリスに招かれる。

1850年には、オックスフォード大学の教授になる。1854年にはタイラーについての講義も行ったようである。

1870年には講義においてダーウィンの進化論を受けて、人間と動物の違いは言語によって区別すると批判的にも考察する。1873年にはダーウィンに手紙を送るも、その中では熱心な読者であるともして、全体的にはダーウィンの著作を読んでいたようだ。

1875年には退官して、1879年には「東方聖典」の翻訳という、東洋の聖典の翻訳を行う。これが、宗教学的にも意義深いものであり、1893年フランスのギメー博物館に仏教や東洋の宗教関連に調べに来ていた土宜法竜がイギリスにもより、オックスフォードのマックスを訪れている。その前後、ロンドンで南方熊楠と土宜法竜は親交を持つ。

1881年には、カントの『純粋理性批判』を翻訳し、ショウペンハウアーと共にカントの思想を直接的にあらわした著作として評価する。これはインド・ヨーロッパ語族(アーリア社会)は『ヴェータ』に始まり、『純粋理性批判』に終わると評している。 このカントの思想は、人間はどのように言語によって空間を捉え試行していったのか、という考察に繋がり、1887年には『思考の科学』においては言語の要素やカントの考察、更には人類と動物の思考の区別など、人類の思考能力から文化まで論じる人類学の骨格が見えると感じられる。

※1…『南方民俗学』中沢新一、1991

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